2005年10月17日 (月) | 編集 |
現実吟味,とか現実検討,という言葉があります。
臨床や教育に携わる者―それは実践者でも研究者でも―にとって,それは,情と知と技のバランスを考えるということだと思います。
具体的に言うと,自分に出来ることと出来ないことを冷静に,客観的に見極める,ということでしょう。
そして出来ないことを「出来ない」と相手に伝える勇気と潔さ,そして謙虚さがなければ,どんな対人援助も出来ない,というかやっちゃいけないと思うのですよね。

出来ないことと出来ることを冷静に吟味する,というのは,でも援助する側にとってもされる側にとっても大切なことじゃないでしょうか。
情だけでも,知だけでも,援助は出来ない。
「情」だけで突っ走ることは抱え込みにつながり,「知」だけの支援はどこか空虚でしょう(「情」の暴走よりはまだましかもしれないけどね)。
「情」と「知」抜きでの「技」の発動は想像つかないので,そこは割愛しますけれども。
援助者が,自分に何が出来て何が出来ないのかをはっきりと自覚しておくことは,援助を受ける側の利益になり,ひとりよがりにならないで済むという点において,援助者の利益になるのではないでしょうか。

しかしそれが出来ない個人や組織の,何と多いことか。
もちろん,「出来ない自分」を自覚するということは,とても困難なことでしょう。
おいらなんて出来ないことだらけでイヤんなりますよ。ええ,それはもう。
けれどイヤになりつつも,出来ないことを自覚することは謙虚さとたゆまない精進につながり,その内に,健やかな専門性となって身につくんじゃないかなあ,と思うのですよね。

目の前に援助を必要とする人がいたとして,そしてその人の身の上に,自らの情がどんなに激しく刺激されても,それでも冷静に,客観的に現実吟味をすることが,援助者たるものの義務でしょう。
その作業はは,多分,苦しいと思います。とても。
でもその苦しさに負けちゃいけないんですよ。

それに,出来ない,ということは別に恥ずかしいことじゃない。
これから出来るようになればいいだけの話なんですから。
「出来ない」と言える勇気と謙虚さを持たない援助者が,現実をまったく吟味しないとしたら,それは悲劇の幕開けといってもいいかもしれません。

また,無力な自分を自覚しても,自棄になっては意味がないと思います。
仏典の有名な逸話で,行き倒れた旅人と動物の話がありますよね。
森で行き倒れた旅人に,力自慢の熊は魚をとって来て与え,知恵者の狐は果物をとって来ます。
しかし無力なうさぎは何も出来ません。考えたうさぎは,自ら火に飛び込んで,わが身を食料として旅人に与えたのでした。
という話。

その続きはよく知りませんが,少なくとも臨床とその周辺にいる人間は,うさぎ的な振る舞いは避けるべきだよなあ,と思うのですよ。
自己犠牲は当人にとっては陶酔のタネでしょうけど,周囲にとっては迷惑なだけです。
勇気と無謀は違います。
その点も,援助者たるもの,よく自覚しておくべきなのではないでしょうか。

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テーマ:心理学
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