2005年10月24日 (月) | 編集 |
今「危険なアネキ」第2回を見てるわけですが。

いいですなあ,森山未來氏の眼鏡白衣姿。
久々に萌え~。

初回見逃したのが残念だわあ。

10:24 追記

観終わりますた。いいよいいよ,森山未來。
彼主演のスクール・デイズも12月公開ということで,乗りにに乗ってる感じですな。
それにしても主演/森山未來・主題歌/平井賢はどっかで見たなあと思ったら,セカチューでしたか。

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テーマ:危険なアネキ
ジャンル:テレビ・ラジオ
2005年10月24日 (月) | 編集 |
私はあなたを守りたい。

とても甘い響きを持った,舌触りも耳触りもいい言葉ですね。
でも最近おいらはこの言葉にちょっとした危惧を抱いています。
誰かを守る,という行為は見方を変えれば,その「誰か」は,守られなければならないある一点においてまったくの無力である,と一方的に宣言するのと同じではないかと思うからです。

たとえばわれわれ国民一人ひとりは,他国による組織的な拉致の前にはまったく無力です。
だからこそ警察や国に頑張ってもらわねばなりません。

しかし人生においての試練や苦しみから,誰かを守れるものでしょうか?
おいらはそうは思いません。
逆に,そう思いこむのは完全なる驕りではないかと思うのです。

私があなたを守る,と誰かが宣言する時,そこには自動的に強者・弱者の関係が生まれます。
もちろん,「守るもの」=強者,「守られる者」=弱者という構図で。
そしてその宣言は同時に,「守る者」が,「守られる者」が困難を克服するチャンスを奪うことでもあります。
そして,「守られる者」が無力であるという強者からの一方的な宣言でもあるのです。
「守るもの」が意識していてもしていなくても。

そう考えると,誰かを守る,ということの裏には,強烈な支配欲が眠っている気がしてなりません。

ところで,臨床心理士資格認定試験での協会側の不手際に対し,抗議文を送ろうという動きがあるようです。
しかしその中心にいる方は今回の受験者ではなく,受験者が利用していた予備校の講師でいらっしゃるようです。
そのことに,おいらは違和感を覚えます。
当事者以外が抗議するということの妥当性の危うさもそうですが,声を上げるべき人が声を上げないことに,妙な感じを受けるわけです。

当事者の誰かがその方に頼んだんでしょうか?だとしたらいい大人が甘えすぎでしょう。自分で声を上げるべきでは?

それとも,その方が自発的に動かれたのでしょうか?だとしたら率直に言って,動いた側に「冷静さ」と「見守る力」が足りないと思います。

協会も下手やったなあ,と思いますが,「冷静さ」と「見守りながら待つ力」の欠如と「甘え」は,やはり援助者になるつもりならばある程度飼いならしておかねばならないものなのではないでしょうか。
そうでなければ,意識せずにクライエントの人生を支配してしまうという悲惨なことになるでしょうから。

おいらたちは当然ですが一人ひとりに人生があり,繰り返すようですが,誰かの代わりにその人の苦難を受けることはできないわけです。
それどころか他者の気持ちを(当事者が感じたまま正確に把握する,という意味で)「わかる」ことすらできません。
心理臨床家だろうと教育者だろうと,どの援助者はそうでしょう。

では何ができるのか。
困難の中にある人に,希望の種のヒントを提案する,あるいは,その人なりの苦難の乗り越え方知る支えになることぐらいじゃないでしょうか。
この作業を,専門知識を以って一般の方々よりは多少(←ここ大事)要領よくできる(かもしれない)のが臨床家であり広義の援助者なのでは?
そしてもしかしたら,援助者の主たる仕事は,与えることじゃなくて「待つ」ことなんじゃないでしょうかね。
だからこそ,援助者が安易に「あなたを守るよ」とは言ってはいけない,あるいは守るという行為そのものを慎むべきだという気がするんですが,いかがでしょうか。

もちろん,危急存亡の危機(たとえば生命の危機)にある人を物理的に守る手立てを講じない,なんていうのは最低ですがね。

どっちにしても,ただそれだけの話なのに,何かにつけ臨床家や援助者の人格や人間性の話になるのはちゃんちゃらおかしいと,おいらは思います。
まして,臨床家は人格的に優れていてほしい,あるいは人生経験が豊富でいてほしい,というのは,おそらくクライエントの側の希望あるいは要望でしょう。
それはおそらく,クライエントが自分を守るための,当然の要求なのではないでしょうか。

そしてだからこそ,その要求を臨床家や援助者が真に受けて,受け継いでいたらまずいわけでね。
しかしそのことのまずさを理解しない臨床家もどきが,特にネット上には多すぎるような気がします。

心理学を学んだからといって人間性が高まるわけではありません。
心理学徒は修験者じゃないんだから。

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2005年10月24日 (月) | 編集 |
突然ですが,恋愛に必要なものって,なんだと思います?
おいらは「ニュアンス」だと思うんです。
雰囲気でも空気でもなく,「ニュアンス」。
言葉に乗っかった,でも言葉では決して伝わらない,何か。
それがわからない,大切に出来ない単細胞は恋なんて出来ない(ついでに質的研究も出来ない)。
たとえばこの本に,次のようなエピソードがあります。

4048725351フリーク・ショウ
山田 詠美

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クッキーという女の子が,やがて故郷に帰ってしまうことがあらかじめわかっている米兵と恋に落ちます。
別れの時,彼は車の運転席でハンドルに突っ伏して涙しながら,彼女に向かってこう言うのです。

「運転,出来ないよ」。

この一見何気ない一言に,2人のどれだけの思いが詰まっているか。それがわからないひとには,恋ははじめられない。
言外に,あるいは行間に,どれだけの思いを詰め込むことが出来るか,それがすなわちその人の恋する能力だと思うのですが,いかがでしょう?

恋はディテールが大切です。
というか,恋自体が人生のディテールでしょう。
だって,ヒトという動物の最終目的である生殖・繁殖には,恋なんてなくてもいいわけですから(だから戦争時には,恋愛よりも見合い結婚のほうが優先されるわけですよ。生産性低い恋は切捨て)。
でも人は,恋をしたがる。面白いもんだと思います。
恋なんて人生における文学や哲学みたいなもんで,なくたって生きていけるはずなんですけどね。
でもそのなくてもいいものに一喜一憂するのは,下らなくも愛しいことだと思いますよ。自分も含めて。
けれどとりあえず,

 やらないか?

と訊かれて

 ウホッ

と答える女はいません。

到達点はそこであっても,そこにたどり着くまでの手練手管,表現方法にうるさい動物なのですよ,ヒト科オンナというものは。
かぐや姫を見たんさい。相手が自分のためにどれだけ時間と手間と労力をかけてくれたか,というのが女にとっては何より大事なんですよ。
女性にモテたければ,まずその「表現方法」を研究しないとダメです。

魂ラジで話題の
でも僕には,妻がいるからダメだよね(by火野正平)
なんてその骨頂じゃないですか。

さらに言えば,光源氏の息子・薫がダメダメなのもそこなんですよね。
柏木の未亡人・落葉の宮に向かって
「死んだものと思って僕のものになれ」
とか
「あなたも男を知らないわけでもありますまいに」
とか,サイテー語録のオンパレード。とても恋上手の源氏の息子とは思えません。
好きだ,抱きたいという欲求を,どうやって相手に了承あるいは伝染させるか,というのが恋の醍醐味だろうに,んな言葉じゃ逆効果もいいところです。
特に後者は悪代官そのもの。最っ低。

因みに,言外にこめられたものが「謙虚さ」ではなくて「謙遜」だったりとか,媚であったりしたときには,個人的にはドン引きですね。
例えば,
俺って嘘ついたり演技したりって苦手なんだよね~
という言葉の裏には,
ほらほら,そんな俺って誠実でしょ?
という媚が丸見えで,非っ常~~に見苦しいし気分悪い。
そうやって薄っぺらく物を言いまわす男には,絶対恋なんて出来ない(断言。
そんなことを言うこと自体,既に演技がかっていることに,そういう男は絶対に気付かない。
その無神経さが嫌われるんです(しかしそういう人のために,恋をすっ飛ばして結婚へこぎつける為のシステム,「お見合い」があるわけですよ。すばらしいですね~人間の叡智って)。
恋愛場面において,男性の「こう見られたい」という欲求=媚ほど小賢しくて醜いものはないと思います。

女性はどうかって?
我々女は普段から化粧だのファッションだので媚をまとうことが板についてますからねえ,不自然ではないのですよ(それでも小悪魔なオンナ志望者は別。小悪魔は天然だから小悪魔なんであってね。あれをまんま実践しても意味がないと思うぞ)。
男性はころりと騙されてくれますしねえ。ほっほっほ♪
でも女にとっては,男の媚は醜いだけ。
「俺って誠実♪」という男ほど不実なもんです。

ということで,思い当たる殿方,ぜひとも精進してくださいませ。

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