2008年02月23日 (土) | 編集 |
先のエントリ↓
障害を対象化しないということ
誰が誰を支えてくのか
の反響が密かに大きくてびつくりなおいらですおハローございます。
いっやー,外はひどい吹雪。
もう2月も終わるというのにえらいこっちゃ。

さて,反響を受けてまたまた由無しごとをば。
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2008年02月17日 (日) | 編集 |
最近ちょっとお堅い話題ばっかりなので週末くらいは柔らかい話を。

ちょっと奥さん,ごらんになりました~?4大陸。
いつのまに日本のフィギュアスケート界はこんなにハイレベルになったんでしょうねえ。
ショートの方,我らがミキティはちょっくら表情がさえなくておいちゃん心配でしたけど,いつもどおりの華と表現力でしたわね。
コンディション悪くても安定して実力を出せたのはさすがです。

そして真央タソ。ショートのステッピングアウトは残念でしたが,ジャンプよりもあなた,何あの超レベルアップしてるステップと上半身の動き!
おいらが先シーズンに生で見たときとは全然違う。
あそこまで完璧だと,もはや人間ではなくて,フィギュアのためのフィギュアロイドだなおい。
ミラクルマオなんて可愛いもんでなくて,フィギュアモンスター真央の方がいいんじゃないか。

なんつか,新時代のスケーターですね,真央ちゃん。
高橋くんやミキティは,モロゾフコーチの影響か,スケーターが氷上の華を競っていた頃の,いい意味でのバタ臭さというか,そんな味があるんだけれども,真央ちゃんは伊藤みどりの流れをくんだ「スポーツ的フィギュア」を追求しているような気がする。
今回2位のロシェットもアスリートタイプの精密さがありますねえ。
表現力命の村主姐さんは前者かな。
これもいい悪いではなくて,好みの問題でしょう。
おいらが好きなのはもちろんドラマチックなバタ臭さですよ~。
氷上でのジャンプが難しいのはもう分かってますから。その難しさを軽々と超える表現を見たい。

今回面白いなあと思ったのは,表現力のある美姫ちゃんが4回転サルコウにこだわり,ジャンプに強い真央ちゃんが表現力を補強してきた点でしょうかね。
そして今大会でトリプルアクセルを成功させたことで,真央ちゃんの方にアドバンテージがついた。
この調子で表現力とジャンプ,両方力をつけてったら,2年後にはどうなってるんだよ真央タソ!ヒィー(((゚Д゚)))ガタガタ
そんで最近のインタビュー聞いてると,真央ちゃんスケートの苦しさと奥深さにも気づいちゃったらしいじゃないですか。
てことはメンタル面も補強されつつあるってことジャマイカ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

しかし我らがミキティも,4回転に挑戦する勇気&根性と,ジャンプを失敗しても入賞できるほどの底力が身についてることが,今回はっきり分かったわけですよ。
今までの繊細な彼女なら,これはできなかったはず。
まだまだどんどん行けるぞミキティ!世界女王ミキティ!おいちゃん応援してっから!

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ジャンル:スポーツ
2008年02月14日 (木) | 編集 |
桃鉄DSのショボさに不満たらたらなおいらですおハローございます。
増資できないってどゆこと?
なんで台風来ないのさ?

さて,今回はこちらを先に読まれてからの方がおいらのとっちらかった頭の中がよく分かるかもです。
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2008年02月08日 (金) | 編集 |
めずらしく連続投稿のおいらですこんぬつわ。

おいら最近,自分は研究者なんだろうか,臨床屋なんだろうか,と真剣に考え込んでるですよね。
いやいやそれを分けて考えるのってどうなのよ,という方もいるでしょうし,そもそもここに立ち寄ってくれている方々からしたら,えー,そんなことも自分で気づいてないのかよーとか言われるような,自明なことかもしれないんですが,でもあれなんですよ,自分としてはですね,あんまし自分の研究テーマと臨床って,がしっと直接的なつながりはないと思ってるのですよ。
ほんのり繋がってるとは言えるんですけど。
少なくとも,このテーマががしがし進展したからって,明日の臨床業界が変わるわけでは決してないですし。

それでも,研究テーマってのは,人生の中でそうそう変える/変えられるものじゃないでしょう?
確かに,実践の中で色々な人と出会い,色々なことを学んで教えてもらうのは楽しいし,やりがいもある。
浅木さんがおっしゃるとおり,そのテーマが自分の中にしっかり根付いてるからこそ,おいらにも,実践の中で見えてくるものもある。
でもなあ,確かに見えてくるものはあるんだけれど,それをネタにして研究しようという気は,全っ然,起きないのです。
実践全般についての勉強は,んもうバリバリしようと思うんですけどね。
しゅてき(はぁと)と思った本は身銭切って買いますし。

んでもやっぱり,研究しない臨床屋なんてサイテーですから,サイテーにはなりたくねえなあ,と,思う。

臨床は楽しいし大好きだけど,研究したい!と思うほどには熱くなれないその理由は,自分でもよく分かんないのです。

・・・っと,ここまで考えてみて,自分が何がしたいか,も一度考えてみますとね。

共にありたいのですよ。人とでも動物とでも良いから。
同じ世界・同じ時間は生きられないけれど,共にありたい。
それができるなら,研究でも臨床でもどっちでもいい。

とかって,もう5~6年前から言ってるんですよねえ(遠い目
そしたらマブダチに
「おまえ,それは・・・宗教家のすることだぞ?しかも殉教者のすることだ」
と絶句されたんだっけなあ・・・

ベースラインがこれだもんなあ・・・そりゃ収拾つかんよなあ。
まあそんなわけで,おいらのピーマン頭の中ではこんな葛藤(なのか?)が繰り広げられているんだよ,という,とりとめのない話だったんでした。

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2008年02月07日 (木) | 編集 |
psy-pubさんとこの記事読んで,発達障害を対象化しないということ という,この本↓の中の記事を思い出したおいらです今日和。

スペクトラムとしての軽度発達障害 2 (2) 現代のエスプリNo.476スペクトラムとしての軽度発達障害 2 (2) 現代のエスプリNo.476
(2007/02)
石川 元

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そして,その書き手は当然というか,白魔女村瀬嘉代子様なのですが。
うーん,これって,障害を対象化しない,ということについて,村瀬先生が書かなくてはならないほど,障害や病は対象化されてしまっているのかなあ。
発達障害,というものに対して,杉山御大と村瀬先生の取られているスタンスは,非常に対照的ですよね。
で,おいらはというと,ええ,村瀬派ですが何か?

だってね,発達障害を対象化しようとしてる人たちみてるとね,

自閉だろうと多動だろうと子どもだろうとエイリアンだろうと,相手は生き物で,生きている「人」ですよね?
ってことは,最低限尊重すべきラインというのも,ありますよね?
それさえ尊重しないって,どういうことなんでしょうかね?
ああそうですか,人は尊重しないでプログラムを尊重するわけですか。

なーんて思ってしまうですよ。

そもそも人はそれぞれ,発達障害があろうがなかろうが,精神障害があろうがなかろうが,その人は大切なからだとこころをもって,その人自身の,大切にされるべき世界に生きているわけですよ。
まさにこの本のいうとおり。

自分自身をみる能力の喪失について―統合失調症と自閉症の発達心理学による説明自分自身をみる能力の喪失について―統合失調症と自閉症の発達心理学による説明
(2005/12)
ラインハルト レンプ

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その人の生きる世界(レンプのいうところの隣接現実)を尊重しながら,その人と共に,どうにかこうにか,他者の世界との折り合いをつけていく,その作業が臨床的営みというやつで,そこんとこを考えるのが,臨床家の仕事じゃないのか。
それが障害や病を対象化しないということならば,そんなの大前提じゃないかと。
これは本当においら,当たり前に,普通のことだと思っていた。
障害だの病気だの,単なる便宜上の線引きでしかないのに,なんでブレイクスルーできない,ないしはしようとしないのか。

障害や病を対象化することの理由として考えられるのは,実践の中で辛い局面に遭遇した臨床家が,自分を励ますためにしてきたこと,というのが,理解できることではあるのですが。
だってそうでなきゃ,クライエントにとって,フェアじゃなさ過ぎる。

杉山御大が対象化を突き詰めていけば,それはむしろ汎化に繋がるような気はする。でもそれは現実にはやっぱり,「気がするだけ」なんじゃないでしょうか。
例えば診断名がつくと同時に,「暴れん坊な太郎君」は「発達障害の太郎君」に変わる。
その事が,クライエントにどんな利益をもたらすのか。
それで杉山先生のような優れた臨床家に巡り会えればいいですけれど,残念ながら,そんなことはまずないと言っていい。
そうなると,後は推して知るべしでございますよ。
障害の外在化なんてされない。本人の外在化はあり得るけれど。
そんなのはとんでもないことだと思うけど,そのとんでもない状況がありふれたことになっている。
発達障害だろうと暴れん坊だろうと,太郎君は太郎君のはずなのに。

つか,その人が発達障害だから支援が必要なのじゃなくて,困っているから支援がいるのだというふうに考えるのは,シンプルすぎるんでしょうかね。

病のような一過性のものではなく,障害だからこそ,長きにわたる支えが必要だってのは分かります。
でもそれは支援のスパンを考えたときに出てくることで,支援の存在理由にはならない,と思うのです。
発達障害でもそうでなくても,困っているなら支えましょ,という自由で軽やかな発想に,何でならないかなあ。
支援をしてくのに,それ以外の理由付けなんて必要ないような気がするんですけど。
ああそうか,これがおいらの,「自閉屋さん」への違和感の元なんだ。
間口が狭いから。

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2008年02月06日 (水) | 編集 |
窓ぎわのトットちゃん という名著があります。

窓ぎわのトットちゃん (講談社文庫)窓ぎわのトットちゃん (講談社文庫)
(1984/01)
黒柳 徹子

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これを読んで,この本の書き手と,なかに出てくる校長先生はオトナだけど友だちだ!と思い,友だちになれそうにないオトナがしでかす不愉快で理不尽なあれこれを思い出しては涙したのは子どもの頃。

今センモンカの視点でもって読み返してみると,この校長先生というのは,非常に優れた実践家だったんだなあと思って,別な意味で胸が熱くなる。
特に,タイトルの一言は,「問題児」であったトットちゃんに向けて,何かあるごとにかけられていた言葉だったそうですが。
とてもやさしく奥深く,含蓄のある滋味あふれた言葉だなあと思うのです。

黒柳氏は,当時は子どもだったからこの言葉の意味を考えもしなかった,と回顧していますが,オトナからの冷たい目線をまったく感じない,ということはなかったのではないでしょうか。
だからこそ,この,一見ちっぽけなエピソードの詳細を,大人になってじっくりと吟味することができたのではないかと思うのですが,妄想が過ぎますかね。

けれどトットちゃんが子どもだった頃から70年近くたった今でも,トットちゃんのように,他者によって,クラス内でのトラブルやいざこざの原因にされてしまう子どもは少なくありません。
その他者に,本当は,その子を信頼すべき立場にいるオトナが混じっていることも,残念ながら,少なくありません。
そんな環境にいた子どもが,どういう面差しをするか。どんな目でオトナを見るか,自分を見るか。
考えただけでつらくなりますが,一番つらいのはその子自身なのよね,と思い返すと,はっと目が覚めます。

目が覚めたおいら,偽善者扱いされるかもしれませんが,言い切りますよ。

素晴らしくない子どもなんていません。
どの子もみんな,素晴らしい。

子どもの臨床ってのはつまるところ,その子の素晴らしいところを,どうやってその子やその子の周囲に伝えて,どうやって,また新しい,素晴らしいところを見つけ出すか,という作業の繰り返しだと思うのです。

そして何度も言ってますが,誰かが自分のことを素晴らしいと言ってくれた,自分のことを誠実に温かく見ていてくれたという経験が,後々のその子を励まし続けてくれるものになってくれればと思うのです。

それにしてもこの校長先生,本当~~~に子どもが好きだったんだろうなあ。
トモエ学園の実践記録とか,残ってないのだろうか~。とか言っちゃうおいらはすごい野暮ですね。

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