2007年08月25日 (土) | 編集 |
おいら昔、動物を求める子どもは孤独なんだよな、と師父に言われたことがあります。
それがずーと気になってたですけどね。
動物を求める子どもだけが孤独なんだろうか、と。

ざくっと言ってしまえば、孤独じゃない人というのは、おそらくいないと思うんです。
困難を抱えていればなおさら。
その孤独が年令に不相応ならなおさら。

最近のエントリでおいらが診断というものにこだわってた理由はたぶん、その辺にある。

精神科領域において「診断をする」、ということは、相手が子どもであれ大人であれ、「あなたは人とは違うのだ」ということを宣告し、大きな孤独に直面させることに他ならないと思うのです。

群れの中で孤独を感じること、というのは人が成長・発達していく中で必要なことですし、誰しも感じたことがあるでしょう。けれど、群れからはぐれた孤独というのは、相当な大きさと深さを持ってるもんだと思います。
そう考えると、親や家族という通常デフォルトであるはずの群れからもはぐれてしまった子どもは、孤独の度合いも半端ではないことは想像に難くない。

けど、まあ、どんな子どもであれ、臨床家との出会いを余儀なくされた子どもは、そのほとんどが、年令不相応な、この種の孤独を抱えているんじゃないでしょうか。

さらに厄介なのは、大きかろうが深かろうが、孤独というのは、乗り越えるものではなくて抱えながら生きていかなくてはならないもんだっつーことなんですよね。
当たり前ですが、全く孤独でない人生なんてありませんし、ましてや孤独を根絶できる療法や薬は存在しません。
あったら大変だよ。人生つまんなくなる。

大人になるということは、一面、生きていく中で、孤独を抱えながらやっていくためのその人なりの方略を見つけて行くことだと思うんです。

愛と勇気だけが友達さ!と腹をくくったりとか。
人類補完してみたりとか。
恋をしたりとか。
仕事に燃えたりとか。
酒に手を出したりとか。
趣味を充実させるとか。
動物飼育の歴史と普遍性を考えれば、動物を飼うことも、このなかにたぶん入るでしょう。

こう見渡してみると、ヒトは本能的に、自分の孤独をかりそめにでも埋める術を、貪欲に求めてきたんだなーと思えてしまうわけですが。

誰だっけね、生きるなんてことは死ぬまでの暇つぶしに過ぎない、とか言った人、いましたね。
それも当たらずとも遠からず、という感じがする最近のおいら。

閑話休題。

なんか最近、その子の孤独に耳を澄ますということがまず大事で、少なくともおいらの関わってきた子どもたちに関しては、誰かが、自分を馬鹿にせず、平等ではないけれど対等な態度で、自分が孤独だということを知ってくれているor知ろうとしてくれていることを知る、それだけである程度のところまでは元気になっちゃうもんなのね、と思うのです。
「ある程度」以降は薬や各種療法の出番でしょうけども。

そんなわけで、どんな子どもが相手でも、まずはその子の孤独に、誠実に耳を澄ますことがおいらの定番になりつつあります。

このシリーズもまた、続くかもしれません→人気blogランキング
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
すこしずれるんですが、
「何か違う」ということだけはずっと感じていた場合、
診断名がつくことによって仲間を得て、
孤独感が和らぐ場合というのもあるなぁと思います。
2007/08/30(Thu) 11:15 | URL  | 千尋 #BfIp3wpM[ 編集]
>千尋さん
おお、次に書こうと思ったことを先に。
おっしゃるとおりだと思います。
診断が青天の霹靂だった人と、そうでない人と、その後の孤独感は違ったものになりますよね。
2007/09/04(Tue) 00:28 | URL  | ぽちこ #grcoP6NM[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック