psy-pubさんとこの記事読んで,発達障害を対象化しないということ という,この本↓の中の記事を思い出したおいらです今日和。
そして,その書き手は当然というか,白魔女村瀬嘉代子様なのですが。
うーん,これって,障害を対象化しない,ということについて,村瀬先生が書かなくてはならないほど,障害や病は対象化されてしまっているのかなあ。
発達障害,というものに対して,杉山御大と村瀬先生の取られているスタンスは,非常に対照的ですよね。
で,おいらはというと,ええ,村瀬派ですが何か?
だってね,発達障害を対象化しようとしてる人たちみてるとね,
自閉だろうと多動だろうと子どもだろうとエイリアンだろうと,相手は生き物で,生きている「人」ですよね?
ってことは,最低限尊重すべきラインというのも,ありますよね?
それさえ尊重しないって,どういうことなんでしょうかね?
ああそうですか,人は尊重しないでプログラムを尊重するわけですか。
なーんて思ってしまうですよ。
そもそも人はそれぞれ,発達障害があろうがなかろうが,精神障害があろうがなかろうが,その人は大切なからだとこころをもって,その人自身の,大切にされるべき世界に生きているわけですよ。
まさにこの本のいうとおり。
その人の生きる世界(レンプのいうところの隣接現実)を尊重しながら,その人と共に,どうにかこうにか,他者の世界との折り合いをつけていく,その作業が臨床的営みというやつで,そこんとこを考えるのが,臨床家の仕事じゃないのか。
それが障害や病を対象化しないということならば,そんなの大前提じゃないかと。
これは本当においら,当たり前に,普通のことだと思っていた。
障害だの病気だの,単なる便宜上の線引きでしかないのに,なんでブレイクスルーできない,ないしはしようとしないのか。
障害や病を対象化することの理由として考えられるのは,実践の中で辛い局面に遭遇した臨床家が,自分を励ますためにしてきたこと,というのが,理解できることではあるのですが。
だってそうでなきゃ,クライエントにとって,フェアじゃなさ過ぎる。
杉山御大が対象化を突き詰めていけば,それはむしろ汎化に繋がるような気はする。でもそれは現実にはやっぱり,「気がするだけ」なんじゃないでしょうか。
例えば診断名がつくと同時に,「暴れん坊な太郎君」は「発達障害の太郎君」に変わる。
その事が,クライエントにどんな利益をもたらすのか。
それで杉山先生のような優れた臨床家に巡り会えればいいですけれど,残念ながら,そんなことはまずないと言っていい。
そうなると,後は推して知るべしでございますよ。
障害の外在化なんてされない。本人の外在化はあり得るけれど。
そんなのはとんでもないことだと思うけど,そのとんでもない状況がありふれたことになっている。
発達障害だろうと暴れん坊だろうと,太郎君は太郎君のはずなのに。
つか,その人が発達障害だから支援が必要なのじゃなくて,
困っているから支援がいるのだというふうに考えるのは,シンプルすぎるんでしょうかね。
病のような一過性のものではなく,障害だからこそ,長きにわたる支えが必要だってのは分かります。
でもそれは支援のスパンを考えたときに出てくることで,支援の存在理由にはならない,と思うのです。
発達障害でもそうでなくても,困っているなら支えましょ,という自由で軽やかな発想に,何でならないかなあ。
支援をしてくのに,それ以外の理由付けなんて必要ないような気がするんですけど。
ああそうか,これがおいらの,「自閉屋さん」への違和感の元なんだ。
間口が狭いから。
あ,なんかスッキリ〜♪→人気ブログランキング