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2009年06月02日 (火) | 編集 |
はい,ちょっと間を開けて続きです。
おっぱいバレー,こんなタイトルですが何箇所か泣きどころがございます。
それはCMで言われている場面では全然なく。

ということでまたしてもネタばれしつつ。
美香子先生が職業として教師を選んだ理由は,自らの中学時代のある体験にあります。
少女美香子が「まったくもって何の変哲もない普通の子ども」という自分の立場に飽き飽きしていた時,断りきれずにたまたまやってしまった万引きが学校に見つかって補導されてしまったのがことの発端。
1週間の謹慎と反省文書きを言い渡された美香子は,担当していた国語の先生に,忘れものの本(実は名作と呼ばれるさまざまな文学作品)を渡されて,その感想文を書くよう言われます。
その時間中,先生は何も言わず,自分も本を読んで過ごしています。
先生の意図が分からず,どうせ忘れものなんだし,と,本の片隅にいたずら書きやパラパラ漫画を書いて,小さく反抗する美香子。
しかしその時に書いた高村光太郎の「道程」の感想文が,感想文コンクールに入賞し,掲示されます。
「何でもない自分にもできることがあったんだ」
と嬉しくなって掲示場所に何度も通っていると,当の国語の先生もその場所に来ていて,
「君は国語の教師になったらいい」
というようなことをいうわけです。

実際に美香子が教師になる頃には,先生は故人になっていましたが,バレー部の指導をめぐって落ち込んでいた時,たまたま立ち寄ったその先生の自宅で,美香子はある発見をします。

忘れものだとばかり思っていた名作の数々は,実は先生の蔵書だったのです。
そして何気ないようにふるまっていた先生が,そのうらで熟慮を重ねてそのような指導をしていたことを知ります。

何というか,ジーンときますな。おいらここで目から汁出ますた。
教師魂の伝承とでもいうべきか。これこそ教育の面白さだよなあと。

先生と美香子のエピソードは,他者から見たらとても個人的な,些細なやり取りかも知れませんが,
教育って結局個人的なものなんじゃないかと思うのですよ。
特に受け手にとっては。

生きていく,ということは,常に他者の中に自分の形を見つけることに等しいと思います(自分探しなんて薄っぺらいものではなく,ね)。
そして,自分の形を見つけるということは,世界と出会うということです。
こんなに個人的で普遍的なことって,そんなにないでしょう?
本来,教育というのは,子どもが世界と出会うための,もっとも良質な手段なんじゃないでしょうか。

自分の長所・短所,一生懸命頑張ったあとの達成感,頑張ってもかなわないことのほろ苦さなどなど,子どもにとって,多くは間接的に,でもポジティヴなメッセージを多く含んだ体験になり得る出来事が,教育の中にはごろごろ転がっている。
それをどう生かすか,あるいは殺すかは教師の腕と親御さんの理解にかかっていると思うのですが,どうでしょうか。

すんげー乱暴に言うとですね,手段はどうでもいいのですよ。
子どもが傷つきすぎなければね。

作中では,そのことに気がついた美香子先生は
「おっぱいを見せるか見せないか」
というちまちました悩みから脱却して,試合で負けかけて半べそかいてる少年たちに,
「私のおっぱいを見るために頑張りなさい!」
と力強く発破をかけられる立派な先生になるのですが。

おそらくは,彼女も,彼女にとっての例の先生のように,まごうことなき「先生」として少年たちの中に残るんだと思います。

教育の場で,誰が子どもに,世界へのパスポートを渡すのか。
渡し方も,渡す人も,色々だとは思いますが,なるべく多くの子どもたちが,よい形で,パスポートを手にできるようにと,願ってやみません。

で,結局男の子たちはおっぱいを見れたのか?
・・・それは観てのお楽しみということで。

ほんとにねえ,タイトルで損してるんだよなあ→人気ブログランキング
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ジャンル:学問・文化・芸術
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