2009年06月16日 (火) | 編集 |
資料づくりをしていてふと神様が降りてきたので,神様がいる間に書いてしまおう。
(と思って寝て起きてから推敲/考する小心者なおいら。)

その場に動物がいなくても,動物介在活動なり動物介在教育は出来る。

いっつもがっつもいないってのはちと厳しいけど,動物介在なんちゃらってのは,要するに,動物をネタにしたらなんかいいことないかいな,というもんだと思うんですが,いかがでしょう。
その場に動物がいなくたって,例えば子どもがかわいがってる動物やペットのことを話題として大事に扱うんでもいいし,教育活動としてなら,今はその場にいない渡り鳥や渡り蝶の生態を調べて,じゃあ今度は観察してみましょっていうのでもいい。
そうするとたぶん,動物介在教育は,理科教育や環境教育とリンクしていくかもしれないんだけど。
だって野生動物や昆虫のことを知ろうとしたら生態や環境についてノータッチではいられないはすだから。

そんでもって家畜について調べていくことは,食の安全や生命尊重教育,ヒューメインエデュケーションにつながるんじゃなかろうか。
動物の活用の仕方と動物がそこにいることによるある種のインパクトの効果は,もしかしたら別に考えた方がよいのかも。
だから鶏を育てて最後にみんなで食べましょうっていうのはある意味ナンセンスで,ある意味重要なんだと思う。

そこに動物がいると,人間は何でかその存在やら動物との関係やらに依存しがちだからね。世話に追われて振り回されるということもあるし。

動物の在不在に関わらないことになると,動物介在教育:Animal Assisted Education:AAEの教育目標てのは,本当に多岐にわたる。
ただそこに,学校飼育動物の活用によくある「命の大切さを知る」という抽象的な目標は掲げなくてもいいのかも知れない。
なぜなら,世話に関する役割責任などは,
「自分は目の前の命に対して責任がある」
というところから始まっているから。
要するに,すでに織り込み済みなのではないかと。

こう考えてみると,動物がいないと出来ないことというのはあまりないけれど,動物がいるのといないのとで決定的な差になるのは,動物の存在感と身体性ではなかろうか。

動物と直に触れ合いたいという欲求や,自分の振る舞いに反応してくれた(それもライブで),抱っこしたらあったかかった等々の嬉しさ・楽しさは,自分と動物,お互いの身体を通してのみ成立することなんだと思う。
これらは身体のないバーチャルペットやロボットペットでは出来ないことだし。
鶏を育てて最後に食べる,というのは,身体性を追求した究極の形態なんだと思う。
ただそこで大問題なのは,関係性と身体性を天秤にかけるてしまうということだ。
関係性を重んじるならばその行為は論外だし,身体性を採るならばこれは究極だと言える。
まあだいたいにおいて,関係性の方が重視されることが多いんだけどね。
そしてたいてい食べても食べなくても,飼った側は傷ついて終わる。
だからこの手のことをするなら,やらせる側にはかなりの覚悟が必要だ。
そんな覚悟をしなきゃいけない教育法を採用するくらいなら,他にいくらでも方法はあるだろう。

さて,そんな人と動物のあいだの繊細な営みをシステマティックに活用していく時には(それが仮にできたとして),AAT,AAA,AAEどれについても継続性の高さがキーになるのではないかと思う。
ただ一度,動物が学校に来てくれた,というのでは,インパクトは大きいかもしれないけれど,ただそれだけだ。
馴れるという言葉は,身体を通してしかわかりえないのだから。

・・・ふう。とりあえずここまで。よくかけた。我ながら。
でも読者の皆様にはつまんなかったですね。すみません。

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