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2016年04月16日 (土) | 編集 |
2週間のご無沙汰です。ぽちこです。

さて表題。
発達屋・心理屋として給料もらいながら人様の人生の物語を拝見するようになって十年目の春のおいら、とっくりと考えました。
いわゆる残念な対人援助職とそうでない対人援助職とは、どこでどう分かれるのかと。
しかし。

わかんない。

わからないのですよこれがまた。

あ、残念でない援助職というのはですね、自分の無力さ残念さを日ごろから痛感していて、それに打ち克とうと少なからぬ努力をしている人のことを言います。
適性の有無とも近い話なのかもしれない。
上記のような努力ができる人は、適性があると言っていいと思うのですよ。問題はその逆の人でして。
自分の無力さからひたすら目を背け、努力もせずに、あるいは間違った努力をし続けてはケースの陰口を叩くという根性の悪いあいつのことです。
あなたのそばにもいますよね?いましたよね?そういう人。

そういう人に限って、自分にとってはこの仕事が天職だとかペロッといえちゃうあの感じ。
そしてまるで大天使様であるかのような上から目線とふるまい。
翻って、腕のいい対人援助職は、まるで悪魔か魔女のようです。
でもって、わたしは後者のたたずまいのほうが、対人援助職には合っている気がするのです。
洗濯屋他人の垢で飯を食い とは江戸時代の川柳だったと思いますが、対人援助職も同じだと思うんですよ。生老病死はもとより、人様の感じる不適応感や親子間・家庭内の不和を飯の種にしているんですから。
人間同士の諍いをエネルギー源として生きる悪魔の方が、対人援助職としてはふさわしいのではないかなあ。

こう考えてくると、天使と悪魔がそうであるのと同様に、適性は生まれつきなのかななどと思ってしまいそうになりますが、いやいや教育の力は偉大なんじゃないかなとか、思いたいわけです。
分かれ目かあ。
うーん。
どこなんでしょ?
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